この街のステキな方々 ⑥

88歳米寿まぢかの池田米一(いけだよねいち)さんは明るい。
「きのう、大船で食べたランチは安くておいしかったぁ」。
明るくそういって、インタヴュー開始前の硬さをときほぐしてくれた。

 ところで池田さんはいま大平山丸山町内のお宅に住んではいない。数年前に心筋梗塞と脳梗塞。さいわいうまく突破されたが奥さまの持病をも考えて3年前、ご夫妻ともども群馬県高崎の老人施設に転居。が、なんとその翌年に奥さまご逝去。二人のご子息一家の暖かい目配り・心配りのもとで高崎にそのままいまもひとり住む。9Bのお宅は無人となった。それをこのたび、来年にかけ建替え予定のわが町内会館の仮事務所用にとこころよく提供してくださった。これで会館事務運営にとぎれはない。ご芳志に心から感謝申し上げる次第です。別用でお戻りになった機をとらえ、無人宅に風入れをしつつ春のひと日、お話をうかがった。

 栃木県佐野市ご出身。東京大学工学部で「流動層反応装置」に取り組んだ。これが将来のライフワークになる。 (「流動層反応装置」については自著数冊をひろげてご説明いただいたがよくわかりません。で、そのまま言葉だけで書いておきます。すみません)。

 卒業して化学工業会社のN社に。そこで池田さんは大活躍される。研究をすすめて東京大学で工学博士の学位を取得するいっぽう、サラリーマン管理職としては、たとえばリストラ人員削減などにご苦労される。社外に多くの知人・友人を持ち、しかも転出者の将来を考えての適材・適所に心掛け、多くの転出に成功された。
 これを機に池田さんは大きな決断をする。独立という夢の実現だ。52歳でN社を退職。「流動化研究所」(開発指導コンサルタント)という自分の城を立ち上げる。国内はもとより海外からも指導依頼は続き、とくに中国へは格別に腐心されたという。並行して多くの大学で工学部の講師をつとめる。

 しかし、「仕事」の激務の中にあっても「趣味」と「地域とともに」はおとろえない。野球、ゴルフ、釣り、以外のスポーツは、まんべんなく齧(かじ)る。駅伝や市民マラソンなどの長距離走が好き。登山はもっと好き。こうして、からだを動かす仲間がひろがる。それから絵画(油絵)。町内会でのグループ活動はもちろん、プロ画家集団"大洋会"の正会員になってはげんだ。こうして、絵仲間がひろがる。そして、カラオケだ!池田さんのカラオケ好きは有名である。いまでも日に3時間は声を出すといわれる。インタヴューのさなかで突然歌い出した。みんなキョトン。「誰の歌か知ってる?」。みんな首振り人形。「内田あかり、ですよ」。いわれて今度はみんなアングリ。こうして池田さんのノドがひろがって歌仲間がひろがる。

 池田さんは地域の人との交流をとても大切にされる。だって、現役ご多忙の「流動化研究所」時代にありながら町内会会長を全うされた。難題にたちむかい善処し解決につとめられた(とくにミニバス・ポニー号)。絵やカラオケの会はもちろんだが、旅クラブ・ハイキングのリーダー、そして白扇会(ご老人会)の会長を長い間。こうして大平山丸山町内を耕して、ほぐして、肥土とする努力をされた。「高崎にきても鎌倉は故郷です。その懐かしさが去らない。この町内を忘れないですよ」。

 そして最後にいわれた。「私は周囲の多くの人達に愛されてきた。心から感謝している。一方、他人と一度も争わず、助け合いと奉仕の心で接してきたことには自信を持っている」と。池田さんは人生の各局面を真正面から、かつ、楽しく耕しながら何重もの厚さにして生きてきたし、きている。ステキな方だ。

 お話をうかがったお宅の庭は、あるじを失ってさすがに荒れていた。でも木瓜(ぼけ)と辛夷(こぶし)は輝くばかりの赤と白とを燃やしていた。 <あるじなきとて春な忘れそ>  あの和歌(うた)に応える心意気がそこにあった。
  インタヴューアー 天野弘一 
文 山田壽雄

池田米一さまのご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげますとともに、
在りし日のお姿を偲び、ご冥福をお祈りいたします。
平成28年3月
大平山丸山町内会

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